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1=0.99999999・・・

青空に白い煙が昇っていった。秋晴れの上空へ真っ直ぐに昇っていった煙の先
端は雲に届いていた。

「雲の中で一服してるんじゃねえかな」誠は笑っていた。

「太くて真っ直ぐで堂々として・・良い煙だ」修は感心していた。

「あーあ。とうとう煙になっちまったか」明はめそめそ泣いていた。

「・・・・・」苺は無言で空へ昇っていく煙を見つめていた。

黄金色の柔らかい陽差しがふいに揺れた。少し風がでてきた。

「おお。見ろ、風が吹いたのに煙は真っ直ぐのままだ」修は空を指さした。

「強情なんだよ。源はよお。煙になっても意地っ張りなんだよ」弾んだ声で誠
は言うと続けた「苺の前じゃさ・・いつもかっこつけてたもんなあ」

明だけがまだ泣いていた「ああ・・源ちゃん」

見渡す限りに広がる水田を見おろす小高い丘にある市営の葬祭場だ。
午前の火葬は一人だけだと係員が言っていた。間違いない。
あの一本気な煙は源だ。
堂々として・・ちょっと威張った感じの・・そのくせちょっと照れてる感じの
煙は源だ。四人ともそう感じていた。
眼下に広がる水田は黄金色の稲穂で埋め尽くされていた。


源は自宅の屋根に降り積もった落ち葉を掃き下ろしていたときに屋根から地上
に落下した。すぐに病院に搬送され8階病棟(最上階)に入院したがほどなく
死んだ。そして今は煙になってはるか上空へ昇っている。
最後まで上り下りの激しい人生だった。


*******


苺が十四才の誕生日のときのことだ。父親と母親は「ちょっと出かけてくる」
といつものように言った。年に数回ちょっと出かけてくる両親だった。
数週間から数ヶ月のちょっとだった。一人娘の苺を残してふらりと出かける二
人だった。戻ってきた両親にむかって苺がどこに行って何をしていたかを聞い
ても父と母は「ちょっとね」と言うだけなのもいつものことだった。
『謎は謎のまま残り、新たな謎を生んだ』同じ町内の誠は言った。
誠・・通称マコちゃん六十二才、居酒屋店主でロック歌手、謎の多い不思議な
男だ。不思議な謎男がこう言う謎の両親は昨日まで十三才だった苺の理解をも
ちろん超えていた。
それはもちろん十四才になった今日も。

「今度のはちょっと・・ちょっと長いんだ」父が申し訳なそうに言った

「うん。長いんだよね、これが」母は嬉しそうに言った。

「だから・・・?」苺は両親の間に立ってニコニコ笑ってる男を指さした。

笑ってる男は源。苺の祖父だ。日本中を放浪して「流しの花火師」と「流しの
手品師」をやっていて、年に一度大晦日に帰ってきて正月二日には家を出て行
く源爺だった。マコちゃん同様謎の多い・・なぞなぞ男だ。
苺が十才のときのこと。イチゴを食べてる苺をカメラでバシャバシャ撮りなが
ら「苺の共食い写真だ。こりゃスクープだ」と何が楽しいのかはしゃいでいた
謎の祖父だ。

「これから俺はずっとこの家で苺と一緒に暮らすんだ」源爺は自慢げに言った。

「それじゃ父さんと母さんはずっと帰って来ないってこと?」苺が声を大きく
した。

「ちょっとな・・」両親と源爺は声を揃えて言った。

「・・・・・」


両親は午後の新幹線で出かけると言って中学へ行く苺を玄関で見送った。
苺は家を出て数分歩くと大きな橋のたもとについた。それから橋の欄干に沿っ
て川面を眺めながら歩いた。

「ちょっと・・かあ。でも源爺との二人暮らしがちょっとで済むわけないんだ
 よね」


苺が生まれ育った所は市内中央を南北に川幅の大きな川が流れている。その川
を東西に跨ぐように架かる三つの橋がある。北から順に上ノ橋、中ノ橋、下ノ
橋と呼ばれていた。中の橋から東へ数キロメートル行くと昭和の初めから続く
仲町商店街があった。近くに大きなお寺があったためか戦中の空襲の時も焼夷
弾の投下から免れていた。苺の家はこの商店街の中に建っていた。
戦争の空襲から免れ、高度経済成長の波に洗われ小ぎれいになった商店街も、
昭和五十年以降近隣に出現した大きなスーパーマーケットやコンビニに客足を
奪われた。さらには、平成を迎え二十年近くなると郊外に次々と現れた巨大シ
ョッピングモールに壊滅的な打撃を加えられた。巨大ショッピングモールは市
の郊外を巨大な円陣で囲むように建ち・・まるで英国製の羽根なし円形扇風機
が送風の変わりに空気を吸い込むように市内各所の古い商店街から客足を奪っ
た。仲町商店街は地元住民が日々の生活用品を買い、壊れた家電や破れた衣類
の直しを依頼する「(商店街)住民の住民による住民のための」商店街として
皆が支え合ってなんとか成り立っていた。
しかし仲町商店街を覆う空気は意外なことに暢気だった。その暢気さを苺は愛
していた。そして暢気に能天気を上塗りしていたのが・・酒屋の修、文房具屋
の明、居酒屋の誠、そして源の幼馴染み四人だった。中学生にしては早熟な苺
はこの六十代の能天気どもを愛していた。そんな苺でも源と誠の無茶には迷惑
していた。

『無茶はどんどんやる。けどな。無理はしねえ。
 無理するのはダセーだけだ』よく分からないことを源は苺に言う。

『三流の大人で一流の男ってことだ』誠も応じて胸を反らした。


仲町商店街と背中合わせに拡がった飲食店街がオリオン横丁だ。
オリオン横丁に誠が一人で切り盛りしている居酒屋があった。客が八人も入れ
ばいっぱいな小さな店で毎晩常連客が賑やかに話していた。店が混雑してくる
と苺も手伝わされた。

「あのさあ。わたしが手伝いに来たのに、マコちゃんがカウンターに座って飲
 んでるってさあ・・なんかルール違反だよな」苺が眉間に皺をよせた。

「ルールその1『未成年の飲酒は禁じられています』」誠が笑顔で応じた。

「酒飲みたいなんて言ってない。働きなさいって言ってるの」眉間の皺が深く
なった。

「ルールその2『大人は子供を甘やかさない』」誠の隣に座った源が言った。

「大人は信じられない」やれやれという顔に苺はなった。

「貴方は神を信じますか?と同じくらいに、貴方は大人を信じますか?は出口
 の見えない命題だ」源が混ぜっ返した。

「『大人は判ってくれない』フランソワ・トリュフォー」苺が応酬した。

誠は唇の端を曲げて笑うと・・ぼそぼそと低い声で歌うように話し始めた。

「『Don’t trust anyone over 30』よみ人知らず。
 1960年代に三十以上の連中を信用するなって言っていたディランやストーン
 ズだってもういい爺だ。物わかりの悪い正しい年寄りだ。
 子供を甘やかすのは年寄りの悪い癖だ」

「でもミックは若い女に甘い」苺は手厳しい。

「・・・・」「・・・・・」

「源爺は上着のポケットからキャバクラのお姉ちゃんの名刺が出てきた。
 マコちゃんは子供のような年齢の女と腕を組んで歩いていた」
苺はたたみかけた。
「年寄りを甘やかすのは子供の悪い癖だ。わたしは良き子供でありたい」

「・・・・・」「・・・・・」


*******


苺が十六才になった夏の宵。
仲町商店街の七夕祭りでのことだ。商店街を通る車道は通行止めにされ歩行者
天国になっている。夜になってやっと吹いてきた風にたくさんの色とりどりの
七夕飾りがゆらゆらと揺れていた。路上にはびっしりと露店が並びそこかしこ
から客引きの声が聞こえてくる。日中の暑気は通りに残り、風は出てきたが大
勢の人出で空気は動かず苺は団扇をひっきりなしに扇ぎながら歩いていた。
『もう暑いよ。盛り過ぎだって。大盛りだって今年の盛夏』
三十分前のことだ。苺は浴衣の着付けに手こずり八つ当たり気味に源に向かっ
て愚痴っていた。『先に行ってるぞ』と源は隣室へ声をかけ、愚痴が怒りに変わ
りそうな苺から逃げるように家を出て行った。
苺は七夕飾りを眺めながら源を探して通り歩いていると奇妙な露店を見つけた。
露店の幟には『言葉堂本舗』と書かれていた。大きな机が一つだけ置かれ、椅
子には男が一人座っていた。標語のような言葉が書かれた紙が机の前に何枚も
貼られていた。道行く人は感心がないのか足を止めずに素通りしていった。
男の話しを立ち止まって熱心に聞いているのは源と誠の二人だった。


男の物売り口上は淀みがなかった。

「言葉堂本舗でございます。
 当店が扱っておりますのは、言葉でございます。
 『世界は素敵な言葉であふれてる』
 当店が取り扱っております言葉は、
 名言、きめ台詞、キャッチコピー
 短歌、俳句に川柳、どどいつ
 自由律詩に壁の落書き、便所の哲学
 謳い文句、殺し文句、歌の文句にセロニアス・モンク
 心はなやぐ言葉の数々。
 『美辞に麗句にお世辞にヨイショ!』
 貴方の気持ちをぐいっとアゲてみせましょう。
 『羽を持たない心だってな、空を飛ぶことができるんだ』
 『そんなことができるの?』
 『いいかいお嬢ちゃん。言葉使いのおじさんに出来ないことなんかないんだ』
 さあさあ。心浮き立つ言葉の数々。
 ユーモアはあるが冷笑はありません。
 ウイットはあるが皮肉はありません。
 当店は、貴方にお似合いの言葉を探します。
 貴方を励ます、貴方に寄り添う、そんな言葉を探します。
 言葉ソムリエです。
 もしご希望でしたらオリジナル言葉の作成も承ります。
 自分にフィットした言葉を呟くと・・・
 元気が出ます。
 勇気が湧きます。
 アイデアが閃きます。
 跳躍力が3%伸びます。
 風呂あがりに湯冷めしません。
 ビールが美味しくなります。
 ブラボー。
 
 さてお立ち会い。
 手前ここに取りいだしたるは素敵な「言葉」の数々」

男は紙に書かれた古今東西の名言・至言・アフォリズムを次から次へと両手で
掲げて解説を始めた。男の解説を聞きながら「気に入った」とか「その通り」
とか相づちをうっているのは源と誠だった。その大げさなリアクションはどう
見ても露店のサクラだ。しかし二人をよく知る苺には分かる。あれは本気で
感心しているんだ。

言葉堂本舗の男の口上に熱がこもった。

「それでは…ここからは当店オリジナルの科白を。
 『すべての男は本末転倒と役立たずの先に存在する』
 ほら。気持ちが軽くなるでしょ。男ってのはね。そんなもん。
 じたばたしても、それ以上でも以下でもない。
 それじゃ次。これは強烈。
 『すべての女は慈悲と理不尽のないまぜでできている』
 ほら。はなから、男は女に敵わいって分かって気分が楽になるでしょ。
 優しくて不合理・・勝てる相手じゃないんだって。うんうん。」

源と誠の二人も「うんうん」と頷いている。
言葉堂本舗のシステムはこうだった。男が客をカウンセリングして客にフィッ
トした言葉を古今東西の名言から選ぶ。もしくは男がオリジナルの言葉を考え
る。それから机の上のパソコンで男が文字をデザインして紙へ印刷する。

「おい。自分で考えた言葉もデザインして印刷してくれるか?」源が声を張り
上げた。

「いいよ。それが希望なら」男は笑顔で頷いた。

すると不敵な笑みを浮かべたのは源の隣に立っていた誠だった。

「俺も自分で考えるぞ!」誠が言うと源は「じゃあ勝負だな」と誠を睨んだ。


苺は口のなかで呟いて立ち去った。
『この二人の男は役立たずの中にだけ存在する』


********


三日間の七夕祭りが終わった翌日の夜。
台所の冷蔵庫のドアを開けた源が「ビールが入ってねえ」と怒鳴った。
「仕方ない。行こう」苺の言葉に「よし行くぜ」と応じて源は笑った。
急ぎ足で誠の居酒屋へ着いた二人は店に入った。早い時間のせいか客は他にい
なかった。カウンターに置いてあるビールの入ったコップは誠のものだろう。
「冷えたビール」「冷えた麦茶」二人はカウンター席に座る前に言った。
誠は手作りの麦茶を冷蔵庫から出してコップに注ぎカウンターに置き、それか
ら瓶ビールの栓を抜きコップと一緒に麦茶の隣に置いた。
誠は注文も聞かずに冷蔵庫からズッキーニを三本取り出して厚めに切った。
フライパンを火にかけオリーブオイルでニンニクを香りが出るまで炒めると、
そこへ切ったズッキーニと手でちぎった鷹の爪を入れニンニクの香りが移った
オリーブオイルを絡めるように炒めた。最後に塩を一振りかけてから皿に盛り
つけカウンターに置いた。

「美味しい。マコちゃんこれ美味しいよ」苺が目を輝かせた。

「・・・マコ、ちょっと厨房借りるぞ」

「なんだよ源?」

「俺の料理ほうが美味い」

「源爺なに張り合ってんの」

「コイツは苺が美味いって言ったとき鼻を鳴らしたんだ。
 『当然だ』って言うように」

「普通鳴らさないか・・鼻。当然だっていうときゃ鳴らすだろ鼻を」

「こいつはガキの頃から謙虚じゃねえんだ」

「どの口が言う?」

「あのな。人間は謙虚が大事なんだ。『実るほど頭を垂れる稲穂かな』だ。
 それをなんだ、料理を褒めてもらって鼻ふん当然ってのは」

「あのな。実って頭下げられちゃな・・
 『実ってねえのにふんぞり返っててすみません』って恐縮してる不憫な稲穂
 が可哀想だろうよ」

「はあ?なんだその屁理屈は。
 だいたいな胡瓜の油炒めなんてな、河童も喰わねえよ」

「ズッキーニ。これは胡瓜じゃないの。ズッキーニ」

「なんだ苺。オマエがマコに味方するってどういいうことだ?」

「へへん。ズッキーニはな胡瓜の仲間だ」誠が得意げに言った。

「ズッキーニは胡瓜に似てるけどカボチャの仲間」

「なんだよ。苺はどっちの味方なんだよ?」

「どっちの味方でもないよ。だいたいね、六十過ぎのいい大人がさあ・・・
 高校一年女子に向かって『どっちの味方だ?』ってさあ。
 恥ずかしくないわけ?」

「全然」「何が?」源と誠は同時に答えた。

「だからね。孫みたいな年の子供の前でね・・実際隣の男の孫だしね。
 マコちゃんは孫同然のわたしに、源爺は孫そのもののわたしにさ、
 『どっちの味方だ?』とか大きな声出してさ。
 恥ずかしくないのって」

「ない」「ない」源と誠はまた同時に答えた。

「・・・・・」


二人の口論を無視して麦茶を飲みながらテレビの野球中継を見ていた苺は
テレビの横の壁にかけてあった色紙に目がいった。

「なにアレ?」

「ん・・?」

「テレビの横のアレはなんなのって聞いてんの」

「あっ。あれか。あれはほら・・言葉堂本舗で作った色紙だ」

苺の声につられて色紙をみた源がゲラゲラ笑い出した。

「だーかーら。なんなのアレって聞いてんの。
 あの言葉はなんなのって、わたしは聞いてるの」

「人間はな、引込みじあんはいけねえなって…」

「・・・・・」

「自分の得意技をバンバン出してドカドカ賑やかにいくぞって」

「・・・・・」

「もう出し惜しみなしだぞって」

「・・・・・・」

壁に掛かっていた色紙には『能ある鷹の爪』と書いてあった。


顔を真っ赤にして笑っていた源は鞄から色紙を取り出すとカウンターの上に置
いた。色紙の文字を読んだ誠は飲んでいたビールを吹き出してゲラゲラ笑い出
した。苺は口の中の麦茶を飲み下すと大きな溜め息を吐いた。
『自我自賛』と色紙には書いてあった。

「自分の精神をさ・・俺のハートをさ、自ら褒めるんだ。
 もっと自信をもって堂々と生きようぜってな・・」

苺が源の話しを途中で切った。

「あのさ。二人とも子供の頃から謙虚じゃないってのが今よーく分かった。
 あのね二人はね仲良しじゃない同じなんだ。
 源爺とマコちゃんはね精神的双生児だよ」

「・・・・・」「・・・・・」

「オレがオレがの自己主張ばっかのオレオレ色紙だ」


ふいに店の戸が開く音が聞こえた。入ってきたのは言葉堂本舗の男だった。
顎と首の区別かつかないくらい太った、映画「紅の豚」のポルコ・ロッソのよ
うな男だった。太った風貌だけじゃない。白い麻の三つ揃いスーツに赤いネク
タイを締め丸い黒サングラスにパナマ帽を被ったところはポルコそのものだっ
た。男はカウンター席に座わりパナマ帽をとりサングラスを外して禿頭を右手
で掻いた。源は慌てて色紙を鞄にしまい、誠はそそくさと色紙を壁から外した。
照れる・恥ずかしがる心は二人にもあることを確認して苺は笑った。

「ミントジュレップをくれ。砂糖は少なめに。控えてるんだ」男は言ってゲラ
ゲラ笑った。

誠はグラスを出し砂糖とソーダを入れ、スプーンで潰して香りを出したミント
を加えてよくかき混ぜた。布でくるんだ氷を麺棒で叩いて砕いた。バーボンを
注いだグラスに砕いた氷を入れ手早くステアしてカウンターに置いた。

「面白い商売だな」誠は瓶ごとビールを飲みながら言った。

「まあな。人間の言葉に興味があるんだ。
 人を傷つけもするが救うこともする言葉にな。
 それと美味い酒が好きなんだ。これは良い出来のミントジュレップだ」

男が源と苺の皿を見て、オレにも同じものをくれというので誠は作ってだした。

「それはズッキーニだ。胡瓜じゃないぞ」源が自慢気に言った。

「知ってるけど」男は怪訝な顔で源に頷いてから苺に話しかけた。

「お嬢ちゃん。アンタは幸せだ。この二人は良い男たちだ。
 シンプルな言葉を吐くシンプルな男たちだ」

源と誠はしまった色紙を出そうとした。

「もう。出さなくていい。
 この二人はね・・複雑が苦手なだけなの」

「お嬢ちゃん。言葉も音楽も生き方も・・シンプルが一番だぜ」

「いい。『ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの』」
苺は映画「紅の豚」のジーナの科白をさらりと言った。

男はそれを聞いてゲラゲラ笑って言った。

「『飛ばねえ豚は、ただの豚だ』
 お嬢ちゃんはいつか・・空を飛ぶかもしれない」

「ええっ。空を飛ぶ前に豚になっちゃうのは嫌だ」

源が満面の笑顔で男に話しかけた。

「アンタ良いヤツだな。
 ジブリの映画を観ろ!これが、オレの教育方針だ」

「ロックを聴け!苺にいつも言ってるんだ」誠も負けずに言った。

「なんてシンプルな教育だ。お嬢ちゃんはやっぱり幸せものだ」男のゲラゲラ
笑いは止まらなかった。


「アンタ手品が得意なんだってな」笑いやむと男は隣の源に言った。

「ん・・。まあな」

男は「こんなのはどうだ」と言うと、ポケットから五百円硬貨を出してカウン
ターの上に置いた。そして硬貨の上に空のグラスを置いた。
と、その瞬間に硬貨はグラスの中へ移動した。しかも硬貨は裏返っていた。
誠と苺が感心して「ほう」と言うと、男は照れくさそうに笑った。
五分後に男は会計をして店を出て行った。


「見事な手品だった。でもあれくらいはなあ・・」誠の言葉に苺がかぶせた。

「源爺の手品のほうがもっと凄いよ」

男の手品を見てから黙っていた源が話し始めた。

「アイツのは手品じゃねえ」

「はあ・・じゃあなんだって言うんだ?」

「アイツは種も仕掛けも使ってなかった。
 あれはトリックなしのマジックなんだ・・と思う。
 魔法っていうかさ・・」

「えっ?」苺と誠が同時に声をあげたが源は答えず誠に言った。

「マコ。さっきしまった色紙を出してみろ」

誠は色紙を見て声をあげた「おお!」
色紙には手書きの文字が書き加えられていた「ロック」と。
源が出した色紙には「ジブリ」と書かれていた。
二枚の色紙どちらにも手書きのアルファベットが書いてあった「M」と。
「凄い!」苺が歓声をあげ、誠が「やるじぇねえか」と笑った。
源はまた黙ってしまった。


店を出た源と苺はオリオン横丁を並んで歩いた。

「苺。空を見ろ」言うと源は空にかかる月を頭上に伸ばした右の掌で覆った。

「いいか・・見てろよ」

源の右掌がスーッと前方に動くと頭上の月が消え、右掌を横に動かすとそこに
月が現れた。

「あのな。今苺が見たのはな・・実はトリックなしのマジックなんだ」

「・・・・・」


********


苺十六才、秋の夜。
食卓で苺は源がつくったカレーを食べていた。向かいに座った源は福神漬けと
ラッキョでビールを飲んでいた。
苺が浮かない顔でカレーを食べているのが気になって誠が聞いた。

「どうした・・まずいか?」

「ううん。ちょっと辛いけど大丈夫・・美味しい」


食べ終わると苺は学校の出来事を話した。
今日のクラスルームは映画のディスカッションだった。教師から指名された苺
が自分の推薦する映画について語り質疑に応答し、以後はフリートークとなった。
苺の推薦映画は「風の谷のナウシカ」だった。
担任の男性教師は熱烈な宮﨑駿ファンだ。
プロジェクターにつないだラップトップ・パソコンからキー・シーンを選んで
上映しながらプレゼンテンショーンした。
苺が話すのを中断し映像を流していたときのことだ。
数人の男子生徒が小声だがこう言ったのが苺の耳に届いた。
「ウゼー」
最初にナウシカを観たのが何歳なのか記憶がないくらいに幼い頃から観てきて、
共感し、楽しんできた苺は動揺した。
教師は目にうっすらと涙をためた。


「あのな苺。そいつがウゼーって思ったんなら、映画はそいつに届いたんだ。
 けどな・・化学反応がおきなかったんだな」

「・・・・・」

「俺はこのカレーに隠し味としてニンニク、バター、唐辛子、砂糖、和風だし
 を入れた。いいか。いくら隠し味を入れても苺の身体や心と化学反応しなか
 ったらオマエはこのカレーを美味しいと感じない」

「味覚は個人によって違う」

「まあ・・本当に美味しいものは多くの人にとっても美味しいんだけどな」

「うん」

「それとな。映像は個人の心理も影響するんだ」

「・・・・・」

「人は見たいモノを見る。人は見たいように見る。」

「うん?」

「そして。人は見たいモノが見える。聞きたいモノが聞こえる」

「うん・・?」

「『心理のバイアス(偏向)』っていうんだけどな。
 物事をネガティブに悲観的に捉える傾向の人っているだろ。
 逆に何でも楽観的にポジティブに考える人もいるよな」

「いるね」

「いいか。映画の戦闘シーンでは視聴者の感情が揺れるだろ。
 主人公が敵に勝つ爽快感や、戦闘の虚無感や、暴力の愚かさや・・
 それぞれ個人によって違うだろ」

「うんうん。それなら分かる」

「それと個々とは別に多くの人に共通する心理のバイアスもあるんだ」

「偏向が共通するってある?」

「いいか。苺はこのカレーを食べたときどんな味に感じた?」

「カレー味だよ。そりゃカレーだもん」

「つまり多くの人が期待するカレー味にすると美味しく感じる。
 カレーと感じたいカレーを食べると満足する。
 甘いカレーは・・辛いのが苦手な人でもカレー味としては満足しない」

「なるほどね!」

「手品はこの多くの人に共通する心理バイアスをついてるんだ。
 多くの人が見たいモノを見たいように見せてるのが手品だ。
 多くの人は見たいようにみてるだけ。
 つまり多くの人はトリックに気づきたくないんだ」

「ふんふん」

「詐欺は個人の心理バイアスに応じて攻めると騙せる。
 電話のオレオレ詐欺は元々悲観的な心理バイアスを持つ人の不安感を大きく
 煽って騙すんだ。だから逆に騙されない人もいる」

「カレー好きのわたしはカレカレ詐欺に気をつけないと」


源はビールを飲みながら苺に紙と鉛筆を持ってくるように言った。

「人は見たいモノを見る・・とは違うんだけどな。
 1/3はいくつだ?紙に書いてみろ」

そんなの計算しなくても分かると苺は言ったが、源はいいから書けと言った。
苺は紙に書いて源にみせた。

『1/3=0.33333・・・・・・』

源はビールを一口飲むと「それじゃ。両辺に3を掛けてみろ。ほら」と言った。

「ん・・?」

「ほら」

「あっ!」苺は小さく叫んだ。

『1=0.99999・・・・・』

「1は1じゃないの?」

「数学的なことは俺には分からないがな。
 1は1じゃない。この式じゃ1は0.99999・・・・・なんだ」

「ふーん。不思議な感じ」

「いいか。1は数字だけど・・概念でもある。単一とか孤立とか。
 1はイメージでもある。
 1とか単一とか聞いた人は誰もさ。
 『0.99999・・・・・』をイメージしないだろ」

「人はイメージしたいようにイメージする・・とか?」

「いや。俺が言いたいのはな。
 1がだぞ、誰だって単一とイメージしてる1だって複雑なんだ。
 だから世界は面白いんだ」

「そうかなあ・・『1=0.99999・・・・・』ってさあ。
 小数点以下の9がずっと続くでしょ。際限なく続くでしょ。
 いつまでたっても完全な1には辿り着かない。
 なんか切ないなあ」

「そうか。俺はそう思わないけどな。
 俺はな・・ちょっと嬉しくなるんだ」

「・・・・・?」


********


苺十七才、春の宵。
午後から商店街に近い公園で始まった町内会の花見は夕方にははねて、いつも
のメンバーで誠の居酒屋に集まった。修、明、源、苺がカウンター席に座り乾
杯をした。厨房に入った誠はツブ貝と胡瓜を切って三杯酢で和えて出し、木串
に刺した肉を焼いた。

修が酔いのまわった顔で焼き鳥を囓りながら「半人半獣のケンタウロスってい
るだろ?」と言った。

「いねえ」誠はにべもなかった。

修が続けた「上半身が人間で下半身が馬のやつ」

「だから、いねえんだ。ケンタウロスは神話だ」

修はコップ酒を飲みながら話を止めない「なあ。半魚人っているだろ?」

「それも、いねえ」誠は言い放った。

修が続けた「半魚人ってよ、半分人間で半分魚ってことだろ。
だけどありゃ、どう見ても人間でも魚でもねえよな」

「だから、いねえんだ。半魚人はアメリカの怪奇映画の作りもんだ」

「えっ。そうなの?」明が驚いた顔をして
「うちにフィギュアがあるんだけど・・」と怪訝な顔をして呟いた。

「あのなあ。なんでもかんでも信じるな。電話がきたらどうする?」誠が言う。

「爺ちゃん・・オレオレ半魚人」と言って源が笑った。

「オレオレ半漁人詐欺だ。気をつけないと」苺がクスクス笑った。


「じゃあ。こんなのはどうだ。信じるか?」源が話し始めた。
「太陽は実は移動している。しかも移動速度は時速7万キロメートルだ。
どうしてかって?宇宙全体は加速膨張してるだろ。その膨張につれて太陽も移
動している。だから太陽の周囲を公転する惑星は円運動じゃなくてさ、円運動
しながら前へ進んでるんだ。だから惑星は螺旋状に回転しながら進んでる。
つまり地球も螺旋回転しながら太陽と一緒に時速時速7万キロメートルで進ん
でるんだ」

「時速7万キロメートルだあ?」明は大きな声で叫んだ。

「地球は螺旋回転しながら宇宙を進んでるって・・」修の声はしぼんだ。

カウンターの内側に立っていた誠は「うっ」と唸ると厨房の柱に両手でつかま
り両足を踏ん張った。
修は椅子に座ったままカウンターの出っ張りを両手で握った。
「この椅子はシートベルトないよなあ」明は不安げな顔をした。
源と苺はジェットコースターに乗った客のように両手をこれみよがしに頭上に
挙げて笑った。

「いいか。光の速度は時速108億キロメートル・・」源は誠から電卓を借りて計算し始めた。
「うん。太陽の進行する時速7万キロメートルは光速の約1/1億5千万だな。
 そして・・宇宙の膨張速度は光速の3倍なんだ。だからさ、時速7万キロメ
 ートルなんて微々たるもんだ」

三人の男はホッと安堵の息をはいた。

「でな」源がまた話し始めた。
「螺旋回転で進行してる地球の遠心力と太陽の引力がつりあってるから俺たち
はシートベルトがいらないわけだ。けどな。太陽が膨張して引力が大きくなっ
たら地球は太陽に・・」

「太陽に・・?」三人は同時に言って源の言葉を待った。

「太陽に地球は突っ込む。
 だからな。空に見える太陽が大きくなったらヤバいんだ」

「あっ、さっき見た夕陽が大きかった」言うと苺はペロッと舌を出して笑った。

三人の男は同時にギャッと言ってテーブルをつかんで足を踏ん張った。

「源ちゃんの話しは半魚人より怖い」修が言った。

自分も怖がったのに照れ笑いを浮かべて誠が言った「太陽が簡単に膨張するかよ。
なんでもすぐに信じると電話がかかってくるぞ」

「爺ちゃん・・オレオレ太陽、膨張して太っちゃってさ」と言って源が笑った。

「オレオレ太陽詐欺だ。六十過ぎたら気をつけないと」苺がクスクス笑った。


苺はマコちゃんが煎れた緑茶を飲みながら山菜の天麩羅を食べた。
源爺、マコちゃん、明おじさん、修くん。気持ちの良い幼なじみの男たち。
四人がいるからわたしは寂しくない。
四人はわたしのシートベルトだ。


誠はテレキャスターをアンプにつながずに弾き始めた。
ローリング・ストーンズ『スタート・ミー・アップ』のイントロだ。
キースのように気怠げにためをつくったリズムのカッティングだ。

「地球はロック&ロールだな。
 キースは言ったんだ。
『ロックをやるバンドはくさるほどいる。
 だけどな。ロールしてる連中が見あたらねえ』ってな。
 地球は螺旋状にロールしてる本物のロックなんだな」

苺は思った『マコちゃんはシートベルトじゃなくて・・アクセルだ』


誠が突然大きな声をだした「あっ。俺な、中学のとき神社の宵宮でな・・・
テキ屋の兄ちゃんが夜店で半漁人を売ってたの見たことあるぞ」

苺は思った『源爺はシートベルトじゃない。効きの悪いブレーキだ』

源が誠へ話しかけた。

「今日なネットで『正義の味方』を検索したら俺がでてきたよ」

「奇遇だな」

「何が?」

「俺も『正義の味方』を検索したら俺がでてきたよ」

ふいにマコちゃんと源爺が苺に顔を向けるとニッと笑って自慢げに言った。

「俺たち最強だろ」

苺は声に出さずに口の中で呟いた。

『アクセルと効きの悪いブレーキのコンビって・・最悪だ』


********


苺十八才、夏の日盛りの午後。
市内中央を流れる大きな川に架かった橋のたもとの川原へ降りるコンクリート
の幅広の階段に苺と源は座っていた。街路樹が日陰をつくりコンクリートの階
段は座ってもそれほど熱くなかった。
源は『CAT or DIE』(猫さもなくば死を)とプリントされたTシャツを着ていた。
苺のTシャツには『NO CAT NO LIFE』(猫がいなきゃ人生じゃない)とプリ
ントされていた。


みんなが暮らす仲町商店街とオリオン横丁の界隈には「御稲荷さん」と呼ばれ
て親しまれている小さな神社がある。神主もいない小さな社と狐の石像が一体
だけの、由緒や縁起を知る人間は誰一人いない神社だった。
小さな境内にはベンチが置いてあって、そこは休憩したり日向ぼっこしたりす
る場所になっていた。
石の狐は右前足を石の玉の上に乗せている。狐の首にはイタリアACミランの
マフラーが巻かれていた。マフラーを巻いたのは誠だ。

「あの凛々しい狐顔はバレージだ。ACミランのフランコ・バレージだ。
 右足をサッカーボールに乗っけてるんだから間違いない。
 センター・バックのバレージがこの町内を守ってくれてるんだぜ。
 チャオ、バレージ!」

その石像は狐顔の人間ではなく狐顔の狐だったが誠は「あれはバレージだ」
と言って譲らなかった。


その小さな神社の境内にはいつも十五匹くらいの野良猫が出入りしていた。
仲町商店街とオリオン横丁の連中は猫好きなのか無頓着なのか、それが
いつもの風景なんだと思ってるのか横丁の路地や神社にいる野良猫を気にしなかった。
いやむしろ可愛がってる連中のほうが多かった。
その野良猫たちのうち数匹が横丁から出て道路を挟んだ向こう側の住宅街に出入りし始めた。
住人の何人かは道路や壁が汚れると市役所へ苦情をいった。
すると市役所は野良猫排除の行政方針を出した。なんでもかんでもクリーン好
きの役人のやりそうなことだった。
猫好きの苺は「我儘だけど良い連中じゃないか」と怒った。
同じく猫好きの源は「権力の横暴だ。住民票を持たない猫に市役所が介入する
とはどういう料簡だ」と怒った。
「権力」という言葉に過剰に反応する「反権力・反骨」が信条の誠も怒った。
修と明もつられて・・・怒った。
猫排除反対の署名を町内で集めて市役所に持っていったが対応した役人は「検
討させて頂きます」と、明らかに検討する気のない顔つきと尊大さで答えた。
苺は「里親を探そう。SNSで呼びかけよう」と提案したが源が反対した。
「野良猫はフリーランスが信条だ。連中は誰にもどこにも属さない。
 どこへ行くのもどんな夢をみるのも自由だ」路地に寝そべる猫を見て源が続
けた「やつらの自由さかげんを見ろ。俺は生まれ変わったら野良猫になる」
「源爺の自由とおおらかさを野良猫も讃えてるよ」苺が笑った。
誠は『反骨音頭』というレゲエ・リズムの曲を作った。ほどよく歪んだ音を出
すテレキャスターをかき鳴らし「野良猫排除反対集会」で歌った。
しかしその歌は野良猫排除反対を訴えるというより誠の反権力・反骨の心情を
歌ったものだった。「でも曲の出来は良いよ」苺が拳の親指を突き上げて笑った。
そろいのTシャツを着たみんなが踊っていた。
「マコちゃんのしゃがれてるけど伸びのある声イイよね」苺が笑顔で言った。

『長いものには巻かれない それ
 多数決には屈しない それ
 きれい事には騙されねえ それ
 それそれそれそれ
 反骨音頭を歌いましょ 反骨音頭で踊りましょう

 偉いヤツには屈しない それ
 大樹の陰には近寄らねえ それ
 ウマイ話は嘘だらけ それ
 それそれそれそれ
 反骨音頭を歌いましょ 反骨音頭で踊りましょう

 背中を丸めて歩かない 反れ
 猫背の野良にも注意する 反れ
 
 重い荷物はしんどいぜ それ
 登り坂はきついけど それ
 坂の上には雲がある それ
 それそれそれそれ
 反骨音頭を歌いましょ 反骨音頭で踊りましょう』


その日は午前十時から「野良猫排除派」と「野良猫容認派」の意見交換会が公
民館で行われた。お互いの意見は平行線のまま交じらず、互いの胸に届かず、
当然化学反応も起こさず、落としどころもないまま会は正午前に散会した。
源と苺は野良猫排除派の論理に呆れ、役所の事なかれ主義に腹が立ち怒りで頭
も身体も火照ってしまったので冷やし中華とかき氷を食べた。
食堂を出て歩いた二人は二十分後には川原へ降りる階段に座って話した。

「苺はいくつになった?」

「十八才。そろそろ十代も終わる。
 さよなら十代、こんにちは二十代・・」

「さよなら讃岐うどん、こんにちは長崎ちゃんぽん」

「十代と二十代はそんなに違わないでしょ?
 こんにちは名古屋きしめん・・くらいかな」

「覚悟しろ、かなり違う。期待しろ、かなり面白い」

「源爺の二十代はどんなだった?」

「青春だ」

「何才までが青春だった?」

「俺は小学校に入学して以来今までずっと青春だ」

「ギネス青春記録だ」

「苺は今まで会った人よりもっと多くの人に出会う。
 いろんな考えやいろんな思いに出会う。
 それは。時には自分とは違う意見だったりする」

「今日も自分と違う意見の人たちに会ったもんね」

「そうだ。俺たちと向こうの連中の意見は違った」

「役所はどうするんだろうね?やっぱ排除かな」

「排除だろうな。まあ。その前に野良猫の救済計画をたてよう」

「うんうん。なんとか救けよう。
 それにしたって排除だなんてね。
 あれだね。正義はたいてい負けるって本当だね」

「『ヒーローはどこにでもいる』ってバッドマンは言ったけどな・・」

「ああ。『ダークナイト・ライジング』のあの科白ね。
 『ヒーローはどこにでもいる。
  それは上着を少年にかけ、世界の終わりではないと励ますような男だ』」

「ヒーローはどこにでもなんかいない。
 ゴートン刑事はあの映画の重要な登場人物だ」

「どこにもなんている人間じゃない」

「まあ。ヒーローはどこにもなんかいないってことだ。
 だけど。
 正義はどこにでもあるんだ」

「・・・?」

「いいか苺。
 正義も不義も。善も悪も。その時代とか、個人の立ち位置や都合で変わる。
 だから・・正義も善もどこにでもごろごろある。
 実際なにが正義でどれが善なのかはよくわからないことのほうが多い」

「ややこしくって困ったもんだ」

「例えばグリーン・パラドックスだ」

「なにそれ?」

「ヨーロッパの或る国では脱原発へ舵を切り再生可能エネルギーでの
 発電量を増やした」

「いいねえ」

「当然電力量は高騰した。だから企業は安い電力を求めて隣国へ工場を移転し
 た。すると隣国は火力発電を増やし大気汚染が悪化した」

「えー、良くないじゃん」

「だけど隣国は雇用が増えGDPは上昇した」

「うーん難しい。世界はパラドックスに満ちている」

「一難去ってまた一難だ」

「さよなら讃岐うどん、こんにちは長崎ちゃんぽん・・だ」

「どっちも美味しいから俺はウエルカムだ」

「わたしもどっちも好きだ」

「だからな苺。よーく考えてな、そして思い切ってな。
 ときには物事を善悪で判断しないで好きか嫌いで判断したっていいんだ。
 面白いか面白くないかで判断するのだって場合によっちゃな・・・ありだ」

「うん」

「大事なのは自分の判断に責任をもつことだ」

「うん」


二人は立ち上がり階段を降りて川原に立った。陽射しが川面で跳ね踊っていた。
苺が顔を源に向けて聞いてきた。

「どうして源爺はわたしの前ではいつも笑ってるの?」

「いつも笑ってるか俺?」

「そうだよ。いつでも笑ってる。
 それってさ。もしかしてさ。わたしの前じゃかっこつけてるわけ?」

「大人が笑ってればな・・子供は伸び伸びするんだ。
 やせ我慢でもな、大人がかっこつけてれば・・子供だって踏ん張るんだ」

「・・ありがとね。源爺」

「俺は苺が好きだ。苺が面白い。だから苺は俺にとって善で正義だ」

「わたしは源爺の善で正義・・」

「もちろん俺は苺の味方だ。
 つまり。俺は正義の味方だ」

「ふふっ」

「夏の午後ヒーローは川原に立っていた。
 それは少女に、世界の終わりではないと励ますような男だ」

「その男は太陽が膨張し世界は終わると友人を騙した男だ」

「・・・・・」


********


苺十八才、秋の昼下がり。
柔らかな黄金色の陽射しがあたりに降りそそいでいた。
家の縁側に座って本を読んでいるとガサッと音がして大量の落ち葉が庭へ落ち
てきた。何事かと庭に降りて上を見上げると二階の屋根に立った源が竹箒で落
ち葉を掃いていた。隣の家は古い大きなお屋敷で、そこの庭の落葉樹から大量
の落ち葉が苺の家の屋根に降り積もり時に雨樋を塞いでしまう。それで時々源
は屋根に登って落ち葉を掃いた。
まあ面倒くさいけどな、隣にあんな立派な樹があるから紅葉を楽しめるんだし
な、と源は落ち葉を気にしてなかった。
源は庭に立っている苺へ屋根から声をかけた。

「おい。葉っぱを集めろ。焼き芋しよう。銀杏も焼こう。ビール飲もう」

「焼きビールは美味しくない」

「なに言ってる、ビールは焼かない」

「ビール解禁前十八才女子の前で美味そうにビールを飲むヤツへの罰だ。
 焼きビールを飲ませてやる」

「・・・・・」


源は落ち葉払いが終わったのか手を動かさなくなった。じっと下を見ていた。

「源爺。竹箒を股に挟んで何やってんの?
 屋根の端に立ってちゃ危ないって。落ちても知らないよ」

「ひょいとな・・飛ぼうかと思ってな」

「何言ってるの?空中浮遊のマジックなんか今やらなくていいから。
 失敗したらどうするの・・ねえ降りなさいよ」

「しばらくやってねえからなあ・・」

「竹箒股に挟んで何をブツブツ言ってんの?
 そんなことして飛べるわけないでしょ。魔法使いじゃないんだから」

急に吹いた風が鳴らした葉音に源の声はかき消され苺の耳には届かなかった。

「あのなあ。俺は・・実は・・・・・」

源は一旦屋根のてっぺんまで昇ると振り返り下をみた。ふうっと息を吐いた。

「源爺。何やってんの!」

源は竹箒を股に挟んだまま屋根の斜面を駆け下りた。
そのまま助走し屋根の先端から足を離した。

「あれ?」

なさけない声を出して源はそのまま庭に落下した。
苺が集めていた落ち葉の山へ激突して源は仰向けになった。衝撃で辺りへ飛び
散った紅色と黄色の落ち葉が目の前を舞った。日差しで葉脈が透けて見える葉
の群舞が綺麗で一瞬見とれたがあまりの痛さに顔をしかめた。

「源爺ぃ。なにやってんのお!」

落ち葉がクッションになったが衝撃を完全に吸収されたわけじゃなかった。
源の足は外側へ変な角度で曲がっていた。その足を見た苺は小さく悲鳴をあげ
泣き顔になった。源は仰向けのまま苺を見上げて言った。

「おい。落ち着け苺。あのな。この足だけどな。
 チャールストン踊ってるみたいだろ?」

苺は怒った顔でクスリとも笑わなかった。
源は苦痛に顔を歪めたまま恥ずかしそうに笑った。


救急車で搬送された源はそのまま入院となった。
苺は担当医から説明を受け、病室に戻ると診断書を源に見せた。

「『両側大腿骨複雑骨折』ってなんだ?」誠は興味なさそうに言った。

「中華料理の名前みたいだ。
 甘酢あんかけがのって出てきそうだ」と苺は困った顔をした。

「びっくりさせたな苺。
 ちょいと油断するとな電線にとまってる雀だって落ちるかもしれないんだ」

「『猿も木から落ちる』ってこと?」

「『弘法も筆に謝る』だな」

「なんなのそれ。ふざけないでちゃんと謝りなさいよ」


源のベッドの上半身部分はを斜めに起き、両足はギプスで固定されている。
ベッドサイドの椅子に座る苺に右手を握らせ、源はその上に自分の右掌を数秒
間乗せて離した。
ほら手を開いてみろと言われた苺は、なんの手品かと思い掌を広げたがそこに
は何もなかった。

「なんにも無いけど・・」と苺は言った。

「そうだな。なんにも無いな」

苺が怪訝な顔をすると源が話し始めた。

「ところで覚えてるか・・1/3はいつくだ?」

「エッ・・もしかして前におしえてくれたやつ?」

苺は鞄からメモ帳を取り出すとボールペンで書いた。

『1/3=0.33333・・・・・・』

「今度はこの両辺に3を掛けるんでしょ」言って苺は数式の下にもう一つ数式
を書いた。

『1=0.99999・・・・・』

「小数点以下の9がずっと続く。際限なくずっと9が続いて完全な1には辿り
 つかない」苺は言った。

「そうだ。最初にこの数式をみたときも苺はそう言ったんだ。
 そして・・辿りつかないこの数式は切ないって言った」

「うん。言った」

「それじゃな、左辺の1から右辺の0.99999・・・・・を引いてみろ」

「え・・?」
「左辺と右辺はイコールで結ばれてるから、その差は0(ゼロ)だろ」

「あっ!」

『0=0.00000・・・・・1』

「ほら。ゼロは無じゃないだろ。
 ゼロ・ピリオドの次からゼロが気が遠くなるほど続くけど、その先には必ず1
 がある。なっ。ゼロは無じゃない」

「・・・・・・」

「ゼロはスタート地点じゃない、もうなにかが始まってるんだ」

「・・・・・」

「まだ何にも始まってねえってこぼすよりはな、
 もう何かはじまってるのかもしれねえぞって思う方がさ・・
 気分が楽になるだろ?」

「まだよく分からないけどね・・・先に気分だけ軽くなっちゃった」

「もう一度掌を見てみろ」

苺はじっと掌をみつめたがそこにはやっぱり何もなかった。


源は眠くなったからもう帰れと苺に言った。苺は個室の病室をでるとき「缶コ
ーヒー飲んだらまた戻って来るから眠ってるんだよ」と声をかけた。
源は返事をせず目を閉じたまま右手で拳をつくりすっと上にあげると親指を突き上げる。
苺は笑顔で病室を出て行った。


源の様態が急変したのは三時間後のことだった。


駆けつけた誠、修、明。そして苺が見守るなか源は二度と目を覚まさなかった。
ピッピッピッと鳴っていた心電図の脈の間隔がどんどん長くなりついには止ま
った。定規で線を引いたような心電図は源の時間が止まったと告げていた。
「すみません」頭を下げた三十代の若い医者は誠の居酒屋の常連客で源によくなついていた男だ。
その医者が「えっ・・?」と声をあげた。

誠と苺が源の脇の下をくすぐっていた。「源はふざけてるのかもしれねえ」

「源爺。ふざけてるなら目を開けないと怒るよ。わたし本気で怒るよ」
修と明は慌てて脇腹をくすぐった。若い医者も足の裏を必死にくすぐり泣いて
いた。

「源爺、あんまりふざけるともう口きかないからね!」苺は目に涙をためて頬をくすぐった。

「もういい。もういいよ苺」誠はそう言うと黙った。

手を止めた修と彰は嗚咽をもらしている。
若い医者は諦めきれないように足の裏をくすぐり肩を震わせていた。
苺は源の額と頬を撫でていた。


********


青空に白い煙が昇っていった。秋晴れの上空へ真っ直ぐに昇っていった煙の先
端は雲に届いていた。

「雲の中で一服してるんじゃねえかな」誠は笑っていた。

「太くて真っ直ぐで堂々として・・良い煙だ」修は感心していた。

「あーあ。とうとう煙になっちまったか」明はめそめそ泣いていた。

「・・・・・」苺は無言で空へ昇っていく煙を見つめていた。

黄金色の柔らかい陽差しがふいに揺れた。少し風がでてきた。

「おお。見ろ、風が吹いたのに煙は真っ直ぐのままだ」修は空を指さした。

「強情なんだよ。源はよお。煙になっても意地っ張りなんだよ」弾んだ声で誠
は言うと続けた「苺の前じゃさ・・いつもかっこつけてたもんなあ」

明だけがまだ泣いていた「ああ・・源ちゃん」

見渡す限りに広がる水田を見おろす小高い丘にある市営の葬祭場だ。
午前の火葬は一人だけだと係員が言っていた。間違いない。
あの一本気な煙は源だ。
堂々として・・ちょっと威張った感じの・・そのくせちょっと照れてる感じの
煙は源だ。四人ともそう感じていた。
眼下に広がる水田は黄金色の稲穂で埋め尽くされていた。



「太くて真っ直ぐな煙が天に昇っていく」

「ロケットを打ち上げた時の煙のようだ」

苺が右手をマイクのように口元に持っていき言った。
「こちらヒューストン。打ち上げは成功だ。
 君の旅立ちを祝福する」最後は涙声になっていた。

「アポロ11号で月へ行ったオルドリンが言ったんだ。
 『あのでかいロケットを打ち上げる動力は人間の魂だ』って」そう呟いた誠
の声を聞いた苺が続ける。

「源爺の魂が天へ昇って行った・・」


葬祭場に戻るとちょっとした事件(?)が起きた。
火葬釜から出てきた台を見て参列者はざわついた。
台の上には・・何もなかった。
骨どころか灰さへも無い台がそこにあった。
きれいに拭いたキッチンの天板のように何も載っていない金属が窓から射す陽
射しを跳ね返して光っていた。
最初に台が出てきた時、係員は「ええっ」と言ったまま動きを止めた。
参列者はマジックショーの瞬間移動を見たときのように「おお」と声をあげ、
何人かは思わず拍手をしてからバツが悪そうに俯いた。

「おい」誠が三人をうながしてその場を離れ中庭へ出た。
煙突から離れていく太い煙を見て思ったことは四人とも同じだ。
源の身体が燃えて無くなったと思っているヤツはいない。

苺が口を開いた。「源爺が消えた」

「ああ。源の野郎消えやがった」誠の言葉に修が応じた。

「源ちゃん・・本当に空へ飛んでったのかな」

「源ちゃんさあ。釜に入るとき棺の中で右拳の親指を突き上げてたかもしれな
 い『行ってくるぜ』って」明がとぼけたことを言うと苺が応じた。

「宇宙飛行士のように・・」

やがて煙が消え空には白い雲だけが残った。
秋の柔らかな陽射しに温められた空気が風になってスーッと髪をすくように吹いた。

「どこに行ったんだ。源の野郎」誠は名残惜しそうにまた空を見上げる。
「なあ」と言って誠は続けた。「今日が源の第二章の始まりかもしれない・・」

いきなりだった。葬祭場のスピーカーから大きな音のかたまりが出てきた。
一瞬なにかが破裂する音かと思ったが・・・それはエレキギターをかき鳴らす
音だった。
キース・リチャーズ独特の気怠いためをつくったリズムのカッティングだ。
ミック・ジャガーのボーカルが曲をぐいぐい引っ張り軽快にドライブした。
ローリング・ストーンズの曲だった。

源の大好きな『スタート・ミー・アップ』だ。苺が小さく叫んだ。

「うん。間違いないね。今日が源爺第二章のスタートなんだ」

「そうだな」「うん」「スタートだ」三人も思いは同じだ。

苺が誇らしげな声で言った。

「こちらヒューストン。こちらヒューストン。打ち上げは成功だ。
 君の新しい旅の始まりを我々は心から祝福する」

四人は眩しい陽射しに目を細め上空を見上げて・・笑っていた。


********


それから一週間が過ぎた。
気持ちの良い秋晴れの昼下がり。誠と苺は神社の境内で話していた。
誠はACミランのマフラーを巻いた石の狐に寄りかかり空を見上げていた。

「苺。どうだ。気持ち良いか?」誠は声を張り上げた。

「うん。すごーく気持ちイイ。秋空の奴きれいな青色になって張り切っている」

「そうだな、そんな感じだな。
 ところでな苺、オマエと話してると首が痛くなってしょうがねえ。
 なあ。もう降りてこい」

「マコちゃん・・それがさ。降り方がよく分かんないんだよね」


誠が見上げる上空で苺は竹箒に跨って浮いていた。





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